空襲寸前の三原 1945年8月

 1945年8月に終った日米戦争の最後の夏、米軍は日本の中小都市まで焼き尽くそうとしました。NHKスペシャル取材班『本土空襲 全記録』(2018年8月、106頁、2017年8月放送)にも、Attacks on Small Urban Industrial Areas と題する1945年7月21日の文書が掲げられていますが、ここでは工藤洋三・奥住喜重『写真が語る日本空襲』(2008年8月、134頁)の画像を右に引用します。このなかの60番めの岡崎までほぼすべて、およそ100番めくらいまで焼き尽くされましたが、この次頁にある尾道は107番め、三原は129番めであり、あと一週間戦争をやめなかったら三原も空襲されていたと想像せずにはいられませんでした。
 去る2020年秋、古民家しみずの改修工事計画を資金不足からご破算して再出発を模索していた時期、福岡から三原まで何度も車で独り往復しましたが、一日、徳山(周南市)に工藤洋三さんを訪ね、お話を聞かせていただきました。工藤さんは空襲・戦災を記録する会全国連絡会議の事務局長で、米国の公文書館で75年余り前の米軍資料を探すのがどれだけ大変か、経験した者にはよくわかる日本空襲研究の第一人者です。工藤さんが入手した三原の空襲関連資料を惜しみなく恵与いただき、1945年8月の三原が空襲寸前だったことを知りました。

三つの米軍資料

 工藤さんからいただいた米軍資料の一つは、Fragmentary Combat Plan for Mihara Urban Industrial Area 90.29 と題する計画書(全2頁)です。米軍の地図区分数字で90.29に位置する三原の市街地をB29の2群団で爆撃するプランが1945年8月8日に立てられたことがわかります。MPI 074108 とある意味は後述します。

 工藤さんからいただいたもう一つの米軍資料は、Weekly Activities Report, 6 August to 13 August と題する1945年8月14日の報告書(全7頁)です。1945年8月6日(月)からの一週間の爆撃について、マリアナ諸島の第20爆撃機集団からサンフランシスコの司令部へ報告したなかに、悪天候でなければ夜間攻撃できる工業都市目標として、左の画像のように16都市を挙げています。八戸、函館、川口、高岡、小谷(岸和田付近)、長野、熊谷、伊勢崎、尾道、岸和田、倉敷、立川、三原、仙台、伏木(高岡付近)、秋田/土崎。このうち八戸、函館、岸和田付近は実際に8月8-10日に空襲しており、広島と長崎に原爆を2発も落とした(八幡と福山も8月8日に空襲した)8月第2週に、3つの中小都市を爆撃したことを「yes」と記しています。

 13日(月)からの8月第3週は、上記16都市のうち、熊谷、伊勢崎、秋田/土崎が空襲されました(ほかに大阪、光、岩国、小田原など)。8月14日夜のポツダム宣言受諾通告後に空襲された熊谷を主として、昨年(2020年)8月15日のTV番組で回顧された各地の空襲(右写真)が思い出されます。もし日本政府が1945年8月14日夜に降伏を通告するのがあと一日遅れていたら、三原もやられていたのではないでしょうか。

 工藤さんからいただいた3つめの米軍資料は、三原の航空写真地図、リト・モザイク(左画像)です。米軍は日本各地の都市ごとに@Frag Plan、AWeekly Report、BLitho-Mosaic の三つを作成しましたが、三原のように空襲を受けなかった都市で三つが揃って残っているのは珍しいそうです。1945年5月23日に撮影された航空写真をもとにしたリト・モザイクには四辺に目盛があり、横074、縦108に清水が赤線を引きました。その交点がMPI 074108であり、上の8月8日の計画書では、爆撃中心点を表す数字でした。米軍は、三原城の天主台跡より少し南、三原城跡を貫いた三原駅を中心に爆撃する計画だったようです。

小早川隆景の深謀遠慮か

 小早川隆景が1567年から三原城を築いた(先日のTV「麒麟がくる」最終回後日談では1585年になお高山城にいるかのように語られていました)が、天主閣を築かなかったのは、数百年後に空から襲撃されるのを避けた深謀遠慮だったのではないかと愚考したことがあります。実際に1945年に日本各地の城跡とくに天守閣が空襲目標とされました。しかし三原城跡(三原駅)は、深謀遠慮どころか、天主閣があってもなくても、狙われたのでした。
 米軍による日本各地の空襲はひどいことで、その前に日本軍がしたことを考慮しても、本当にひどいことです。熊谷のようにならなくてよかったと考えるわけに行きませんが、尾道や三原も、熊谷などと並ぶ空襲目標だったし、あと一日だったようです。もし三原駅を中心に焼夷弾が投下されていたら、のちの古民家しみず(リト・モザイクのの位置)も焼失していたことでしょう。
2021.2.11 清水靖久

追記(2021.8.23)
 その後、熊谷空襲を忘れない市民の会編『最後の空襲 熊谷』(2020年11月、33頁)で言及されている米軍資料「光海軍工廠、大阪陸軍造兵廠、岩国麻里布操車場、日本石油秋田製油所、熊谷、伊勢崎への1945年8月14-15日爆撃報告書」を国会図書館Webサイトで見ました。日本が和平交渉を遅延しているように見えた8月13日と14日、4施設(光、岩国、大阪、秋田土崎の施設)と2都市(熊谷と伊勢崎)への8月14-15日爆撃が命令されたと8月15日付の報告書にあります。ということは、もし日本の降伏がさらに遅延していれば、「あと数日」で尾道や三原や他の11都市への爆撃が命令されたかもしれないが、「あと一日」ということはなかったでしょう。上記「あと一日」を修正します。

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