竜王山、筆影山から眺める瀬戸内海
上の写真は三原市須波町の竜王山(445m)の展望台からの眺め。素人写真3枚の貼りあわせです。しまなみ海道七橋のうち新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋が見えます。瀬戸内海の向こうに石鎚山が見える日もあるそうです。
左の写真は同じ須波町の筆影山(311m)の展望広場からの眺め。展望台からは木々が生い茂っていて撮れません。多島美とよくいいますが、見える橋は因島大橋だけ、尾道も見えないし、西は佐木島までしか見えないのです。
《竜王山がすばらしいのは瀬戸内海の可視の眺めだけではない。竜王山には小早川氏の狼煙場があったらしく、ここから本郷の高山城跡や新高山城跡が望まれるように小早川氏の居館と連絡し、ここから須波の皇后八幡神社の西の尾根の狼煙場と連絡していたという。須波は小早川水軍の瀬戸内海への進出拠点であり、小早川氏の一族が須波から高根島・佐木島・生口島などに進出したのは14世紀初めだったという。『三原市史』7、138,317ff頁》
150年余り前の民家
備後国三原城絵図は、慶応年間(1860年代後半)に森秀之進が実測して作成した絵図であり、城の石垣や櫓や門や武家屋敷が詳しく描かれています。そのなかの赤矢印の民家は、妙正寺の下、西町通り(のち本町中央通り)から八坂道《角に大浜屋模型店。その最近の写真と1976年宮本常一撮影の写真》を上がったところにあり、150年余り前の古民家しみずではないでしょうか。
河原谷川は、1877年に蓮堀へ流れを変え、のち帝人通り下を通って三原港へ注ぎますが、当時は西之浜へ注いでいました。その河辺ということは、16世紀後半に大島小島をつないで三原城が築かれる前は、海辺だったのでしょう。
旧清水歯科医院
かつての海辺にあった民家は、兵火も戦火も免れて、やがて清水歯科医院となりました。日米戦争の最後の夏に呉も因島も広島も福山も米軍機に爆撃され、129番めの空襲目標だった三原も危ないところでした。
戦争から逃れてきた人々の避戦の街 三原で、陸軍軍人だった清水康彦は1950年に清水歯科医院を開き、それからほぼ50年、診療を続けました。歯医者なのに待合室は畳敷きじゃないかと、子供はからかわれたものです。畳敷きの待合室には天窓もあります。
旧清水歯科医院は、診療をやめた1999年以後も看板を外しませんでしたが、2012年に空き家となり、2018年には売却解体寸前でした。これを古民家しみずと改め、広島海道の早春の港として活用できないか考えました。
古民家しみずのカフェ&民泊
三原市本町で生まれ育った清水靖久とその家族が、地域の人々に助けられながら、古民家しみずでカフェ&民泊を営みます。展示や談話の会ができる土蔵ギャラリーも設けます。2021年早春からの予定です。
三原駅(三原城跡)から歩いて5分の古民家に泊ってみませんか。かつての海辺の古民家は、築150年余り、間口7.4m奥行32.2mと細長いが、梁が太く、天窓が二つあります。旅の人には瀬戸の城下町 三原の街と海山空を案内します。酒どころ三原に一つ残った酔心があり、海辺の青さ教えたい♪三原港があり、城と島々を岡岷山が登覧画図(1802年)に描いた妙正寺がすぐ近くにあります《旧商工会議所跡に14階建てが立って以来、妙正寺からの近年の眺めは非常に残念》。
椋梨ダムの白竜湖から、宇根山天文台そばの山頂からも、ペルセウス座流星群がよく見えました。
カフェやギャラリーで三原の歴史や文化を語り、芸術や学問に触れてみませんか。三原城に天主閣を築かなかった小早川隆景の深謀遠慮、今日も語り伝えられる甚五郎松の人柱伝説、「この世界の片隅に」の呉のように大発展しなかった三原の鉄道駅の運命《1894年6月の山陽鉄道開通ののち、1903年の三原城跡の駅と汽車の写真は周知だが、1945年8月に空襲寸前だった三原駅については別のWebページ》、三原城の遺構がほぼ三つしか残らなかったのはいつ《1940年の三原城跡の写真にはまだ長い石垣あり》、海洋汚染でとても魚は食べられないと子供心に思った瀬戸の港町 三原がどれだけタコの街から遠かったか、大金を配って捕まった叩き上げの政治家《妻有罪》も三原生まれとか、考えたいことは沢山あります。
過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となるといいます。しかし過去の歴史にばかり目を向けるのでなく、現在と未来のことを誰もが語りあえるようにしたいと思います。新幹線三原駅の乗降場から海が見えたことが遠い昔話となった今日、小早川隆景が夢見た天主閣を三原城跡歴史公園に築くのは無理か、ラウンドタワーのような散歩塔《たとえばこの模型。チェコのこれやアイルランドのこれやイタリアのこれ。デンマークのこれのように、階段でなく坂道の塔》を日本一駅近な城跡に建てれば少し歩くだけで海が見えるのにとか。 2020.9.22 清水靖久
【このWebページを作成してから、莫大な設備資金の必要が明らかになり、カフェと民泊とギャラリーの三つを柱とする「古民家しみずのカフェ&民泊事業」の計画をご破算としました。その後、名ばかりのカフェと民泊に計画を縮小して(カフェは飲切りドリンクを置く交流スペースに変更し、ギャラリーなどは当面断念して)再出発しました。岩下建設による改修工事も始まり、来春開始をめざしてWebページを公開します。2020.11.4】
【これより下は後日の追記。上の《》内も追記や注記】
Webページ公開後の追記
古民家しみずのカフェ&民泊事業は、10月に計画を縮小して再出発しましたが、12月からクラウドファンディングの活用を試みます。もし寄付が集まれば、当面断念したギャラリーなどが復活し、施設情報は次の通りとなります。住宅宿泊事業法に定める年180日を超えない日数で、毎週金・土・日曜日に民泊事業を営みます。民泊:16:00~10:00、カフェ(当面は交流スペース、最終目標は厨房つきカフェ):11:00~15:00、土蔵ギャラリー:11:00~15:00。設備:台所・浴室・便所・洗面台・洗濯機・WiFiなど新設。宿泊料金:1人6,000円・2人10,000円・3人12,000円(食事は提供しません)。電話(0848)62-2968(2021年2月開通)。Email:ks622968[at]KominkaShimizu.net 2020.12.1
古民家しみずは、2020年には来春開始でしたが、新しい年を迎えて今春開始となりました。遠い夢のような計画もあれば、3月中に必ず実施しなければならない計画もあります。このWebページにも加筆したいことが沢山あり、たとえば上の追記にリンクを張ったようなことをしたいのですが、それどころかこのように追記するのでないWebページにしたいのですが、なかなか余裕がありません。あと3か月、何とかしなければ。 2021.1.1
毎日新聞記事「築150年の古民家を民泊施設に再生」(2020.12.14)は、遠い夢のような計画も含めて、とてもよく書いてありましたが、ただ一点、補訂したいことがあります。「慶応年間(1865~68)に建てられたとみられ、1860年代の地図に描かれている」という記述は逆で、古民家は1860年代までに建てられたとみられ、慶応年間(1865~68)の備後国三原城絵図に描かれていると記した方が正確です。 2021.1.1
毎日新聞に提供した写真は、古いアルバムにあった1954-56-58年頃の3点を一枚にしたものですが、もし余白があれば1954-56-58-60年頃の4点にしたかったとも考えました。清水歯科医院の立方体看板の電話番号が968番から2968番(のち2-2968番、さらに62-2968番)に変ったのは1958年頃かという以外にも、グリコ牛乳をとっていた時期があったのかとか、日曜休診を明示しなければならなかったのかとか、坂の上には電柱看板のように占部産婦人科があったなとか、種々のことがわかります。 2021.1.2
正月の3、4日に行ったら工事が随分進んでおり、左の写真のように、外観もかなり変りました(「清水歯科医院」の看板は、このところ工事のため外してありますが、「改め 古民家しみず 今春開始」のラベルシールを貼り直したので一時掲げてみました)。この黒壁を想定したロゴが、グラフィックデザインそれもタイポグラフィーを修めた長女の手で作成されました。「古民家しみず」の文字は、三原市小泉町の書家 鵜島朴同さんの書です。 2021.1.7
1月13、14日に行ったら向かいの敷地でも工事が行なわれていました。かつてのげんきん屋から伊勢屋(去る11月初めの解体前の写真には「お茶の伊勢屋」「共通一次200点をとっている 数学塾」の看板が残っていました。私は通いませんでしたが、1960年代末、おそらく共通一次入試が実施された1979年以後(~1989年)も、とても評判の高い塾でした)までが更地になり、駐車場跡が掘り返されていました。本町中央通りから撮った右の写真のように、出てきた石が丸っこいことから、ここはかつて河原だったことがわかります。150年前には河原谷川が流れていた河辺だったし、450年余り前には海辺だったのでしょう。 2021.1.18
お礼の言葉 家主 清水靖久(クラウドファンディングの進捗情報欄に掲載 2021.2.1)
『古民家しみず』再生プロジェクトへの三原市のクラウドファンディング活用支援事業に対する多大の応援、ありがとうございました。
空き家になっていた旧清水歯科医院を地域のために活用したく、2019年秋から三原市のリノベーション実践塾で改修案を練っていただきました。カフェ&民泊&ギャラリーからなる改修計画は、原案の約二倍の工事費が必要とわかってご破算、計画を大幅に縮小して2020年10月に再出発しました。三原市からはクラウドファンディングによる支援事業を提案され、ひと月足らずで慌しく準備し、実施期間も2か月と短かったのに、多くの寄付が集まりました。この支援事業に声援いただいた方々、実際に寄付してくださった方々に厚くお礼申し上げます。
古民家しみずで三原の歴史と未来を語りあい街の活気をとり戻すプロジェクトは、この寄付金を一つの基礎として、これから始まります。民泊とカフェとギャラリーの三つを実現するのは遠い目標ですが、それに半歩近づいたように思います。寄付してくださった方々には、2月になったら家主からお礼の品をお送りします。実施期間中はお名前をお聞きしませんでしたが、支援人数が増えるたびに合掌瞑目していました。
実施期間中もこの家の歴史を知りたくて、あちこち訪ねました。毎日新聞の記事を見たよ、広報みはら1月号に載っていたねと聞くたびに、激励を感じました。66年前の写真の清水歯科医院前の女性に辿りつきましたが、コロナ禍ゆえにお会いするのを延期しています。45年前に増改築工事をしてくれた辰美建設は尾道の向東町にありましたが、すでに閉鎖されていました。
古民家しみずは、当面は住宅宿泊事業法に則って、民泊二室一組、カフェとは名ばかりの交流スペース一室を開きます。いつの日か、四室二組の民泊、厨房つきカフェ、そして土蔵ギャラリーを営むのが遠い夢です。もっと遠い夢は、小早川隆景が夢見た天主閣を三原城跡歴史公園に築くことです。そのために、いつか再びクラウドファンディングを試みますし、古民家しみずで三原の歴史と未来を語りあいます。
古民家しみずは、岩下建設による改修工事が進んで、外観もかなり変りました(二つ上の写真)。2月末に改修工事が終れば、いただいた寄付金で家具什器を整え、3月末に開業する予定です。その日程にはいくつも難問が待っていますが、多大の応援を受けて、何とか開業にこぎつけたいと思います。幸いに開業できたら、どうぞ訪ねてきてください。
(古民家しみずのWebページもご覧ください。http;//www.KominkaShimizu.net )
しばらく身体を壊していて三原へ行けなかったのですが、よくなってきました。送ってもらった2月20日の古民家しみずの外観(左の写真)のように、看板をつけ、玄関の引戸を替え、電気メーター2つを撤去するなどしました。工事完了も間近、これから三原にほぼ常住します。 2021.2.22